本当に腹が立つ。友行は目の前の男を睨みつけながらずっとそう思っていた。
彼がもっと行儀が悪く、またこの場所が公共の場でなかったら、とっくにその厭味なまでに整った鼻筋をへし折っているところだった。
そんな友行の心の内を知ってか知らずか、目の前の男はさらに友行に油を注いだ、目の前の男はさらに友行に油を注いだ。
「君は直生さんの伴侶にはなれない」
「あいつのこと気安く名前で呼ぶんじゃねえよ」
友行が低く唸ったところで、この男にはさっぱり効果がないことはもう分り切っている。それでも友行は威嚇せずにはいられない。
案の定、男はこれまた整った唇をわずかに開いてため息をついた。その様と言ったら、このありふれたチェーンのコーヒーショップが、それこそこの男のような上流階級の人間だけが利用できる名のある店にさえ見えてくる。それもこれも、この男の第二の性がαであるが故だ。
男女の性別のほかに、α、β、そしてΩに分類される第二の性──通称『オメガ・バース』が存在していることは、一般教養として知られている。
とは言え、その実ほとんどの人間はαでもΩでもないβに分類され、半ばその存在は忘れられかけている。支配階級のαも社会的に冷遇されるΩも、大多数のβにとっては架空の生き物でしかない。
しかし、友行にとってはそうではなかった。幼馴染で隣人の直生が、Ωだったからだ。
直生は穏やかで体が弱く、ほとんど世間と関わらずに過ごしてきた。それは数か月に一度の発情期があるΩであるが故だった。
直生の家の縁側で、直生と共に庭の草花を眺めることが、友行にとって一番大切な時間だった。友行が体験したことや感動したことを、穏やかに笑って聞いてくれる直生が、何よりも大切だった。
このままずっと隣で直生が笑ってくれればいい。友行にとって直生は永遠の象徴だった。
だが、そんな二人の穏やかな時間に、亀裂が入ってしまった。
定期検診の帰り道、「のどが渇いたから、寄ろうか」と何気なく直生が指さしたコーヒーショップから出てきた男と、直生の視線がかち合った。
「直生?」
不審に思った友行が声をかけても、直生はびくりともしなかった。
と、次の瞬間、ぶわっと音がしそうなほど、甘くて強い香りが直生から立ち上った。それは、βである友行でさえ、ともすればのみ込まれてしまいそうなほどの、強烈な匂いだった。周囲を歩いていた人々も、次々とその場で立ち止まる。
Ωが社会的に冷遇されている最たる要因『フェロモン』、支配階級αを、一般人βを惑わす、本能に訴えかける匂い。それがこんなに噴出するのは。
──友行の背中を汗が伝っていった。「直生!」必死になって直生の肩をつかんで揺すった。だが直生には、友行の言葉が聞こえているのかいないのか。次第に彼の瞳は潤み、口から浅い呼吸が漏れ出した。
「直生! 直生!!」
小刻みに震えてとうとう膝をついてしまった直生の体を、友行は襲い来るフェロモンからどうにか意識を逸らしながら抱きしめた。
そんな状態になっても──いや、そんな状態だからこそ、直生の視線はただ一人に縫い止められている。
その視線の先、コーヒーショップから出てきたままで固まっていたその男は、直生の体が崩れ落ちたその瞬間、大股で友行と直生のそばまでやってきた。そして、
「君、抑制剤は」
興奮で上ずった声ではなかった。この場で間違いなく最も冷静な声で、その男は直生に訊ねた。
「そうだ、直生、抑制剤……!!」
言いながら友行は、直生が提げていたトートバッグからつい先ほど処方されたばかりの抑制剤を引っ掴み、どうにか直生に飲ませた。
直生が落ち着くまで友行は、その背中を撫で続けた。そうしてとにかく発情が収まるのを待っている間、こっそりと友行は下唇を嚙んだ。
すると、目の前の男はそっと名刺を差し出してきた。
「後日会って話をしたい」
男は直生ではなく、友行にそう言った。どこまでも理知的な男の顔を友行は窺った。「大事な話だ」と男は念を押して、半ば強引に友行に名刺を受け取らせた。
まさにその男が、今目の前にいる。
あの時も今日も、男はずっと冷静だった。話には筋が通っており、何も間違ったことは言っていない。
だがそのことが、余計に友行を腹立たせる。
「よく考えてみたまえ。伴侶のいないΩの放つフェロモンは、不特定多数の人間を惑わせる。本能には到底逆らえない。
それでもし、事故が起こって、望みもしない相手の子を孕んだらどうする。
直生さんが傷つく姿を見るのは、君も本意ではないだろう」
そんなこと、言われなくてもわかっている。だから直生はそのことを恐れてほとんど人付き合いをしないのだ。
友行は苛立ってカップを傾けたが、もうとっくにコーヒーはなくなっていた。
「私の伴侶になれば、直生さんはもう不特定多数を惑わすことはない」
「伴侶伴侶って……結局直生を自分のものにしたいだけじゃないか」
「勘違いしてもらっては困る。根拠がなくて言っているわけではないのだからな。何せ私たちは『運命の番』なのだから。
でなければあの日あれだけ強いフェロモンを直生さんが発する理由がない」
「運命とか言って自分の性欲を正当化してんじゃねえよ!」
ついに我慢ならずに友行は吠えた。男はわずかに眉をしかめて、まだたっぷり残っているコーヒーを飲んだ。
友行の握った拳が震えていた。大きな声に周囲がしんと静まり返り、注目を浴びているのを感じたが、友行は止まらなかった。
「偶然その場に居合わせただけのαが……運命であってたまるかよ……!」
「……βの君には、わからない話だ」
わかってたまるか。友行はそう思った。
何が運命だ、何が伴侶だ。結局自分が正しいのだと言いたいだけじゃないか。そう叫んでしまいたいのに、一般教養としてのオメガ・バースの知識が、友行の口を塞ぐ。
本当は友行もわかっていた。Ωが一番強くフェロモンを発するのは、自分の伴侶を見つけた時だ。それは本能であって、理性でどうこう説明できる問題ではない。
だからこの男が言うことは何も間違っていない。
それに、伴侶を得たΩは、伴侶のαにしか発情しなくなる。この間のような事故は起こらなくなるし、それはすなわち、もう直生が外の世界を恐れる理由もなくなる。
誰より近くで直生を見てきた友行は知っている。
実は直生が外の世界にとても興味を持っていること。
もっといろんな人たちと関わって生活したいと思っていること。
でなければ、友行の体験やそこに付随する感動を、あんなに熱心に聞き入ったりなどしない。
唇をかみしめたまま、ついに何も言えなくなった友行に、男はまだ中身の残っているカップを手に席を立ちながら、「少し冷静になるといい。後日また、話をしよう」と言い置いて、颯爽と去っていった。
男が目の前から居なくなっても、いや、むしろいなくなったからこそ、友行は悔しくて、血のにじむほどに拳を握りながらうつむいた。
αとΩの本能を運命と呼ぶのなら、自分が直生の幼馴染なこと、直生の隣に住んでいること、ずっと一緒に過ごしてきたことを、運命と呼んでもいいじゃないか。
誰に言うでもなく友行の胸の内にそんな思いが渦巻いていた。
そしてこの思いを、誰よりも直生に肯定してほしかった。あの理知的で冷静なαではなく、平凡な自分を選んでほしかった。
ただ隣に座って、穏やかにめぐる四季を感じて、二人で永遠を感じていたかった。
その感情を、人は恋と呼ぶのだろうか。
中身のなくなったカップをぐしゃりと握りつぶし、友行はコーヒーショップを後にした。
誰よりもただ、直生に会いたかった。
