ふわふわ

路地から大通りへと抜けたところで、イーサンは詰めていた息を吐いた。非現実から現実へ戻ってきた実感のようなものに、知らず安堵する。
刑事だった頃から探偵になった現在でも数多くの事件現場を目の当たりにしているが、それでもやはり凄惨な殺人事件の現場は息が詰まる思いだ。それが難事件とくれば、余計に息が詰まるのも仕方のない事なのだろう。

なんとも不明瞭な事件だ。ふわふわとして掴みどころのない、それこそ霧の中を歩いているのではないかと錯覚しそうだ。

歩きながら手帳を捲る。事件の概要を纏めたページは散々としていて、イーサンの思考の不鮮明さを物語っているかのようだ。

複数あった目撃証言はどれもが食い違っているし、遺留品にも引っ掛かる物がある。被害者についての謎もある。
それらは何か一つの事象で繋がるような気がしているのだが、その何かをまるで雲のように掴めないでいる。

定まらない思考に頭を悩ませながら歩いていたせいだろう。ふいに聞こえた「おはようございます」という声に、イーサンは驚いた。
と言っても少し目を見開いた程度で、親しい人間でなければ気がつかないのだが、声の主はそこに分類される人間だったので、イーサンの反応に少し笑っていた。

「驚かせてしまいましたか。申し訳ありません」

本当は大してそう思っていないのであろう声の主を目に留める。そこでやっとイーサンは、推理に熱中しながら無意識にこの場所へ向かっていたことに気づく。
ここは彼が妻の墓前に供える花をいつも買っている花屋で、声の主はこの花屋で働く青年ロルフだった。

「いや……考え事をしていてな。おはよう」

驚かされたことと、意識せず花屋へ足を向けていたことへの照れ隠しで、普段から無愛想なイーサンはさらにぶっきらぼうになってしまう。ロルフはそんなイーサンを気にも留めずに、にっこりと笑った。

色とりどりの花に囲まれて仕事をしているせいか、それが本来の彼の性格なのか、あるいは彼が自分より一回りも年下なせいなのかは不明だが、イーサンが思うロルフはどうにもふわふわとした部分があって、そんな彼を前にすると少し毒気を抜かれるような心地になるのだ。
そのせいなのかはわからないが、難事件を前にした時ややりきれない事件に巻き込まれた後には、ロルフに会って彼から花を買い、妻の墓前に供えに行くことがイーサンの癖になりつつあった。

「また事件があったそうですね」

柔らかな雰囲気は崩さずに、ロルフは少し眉を顰めた。
この青年は見かけによらず情報通で、イーサンはその耳聡さに時々舌を巻く。

「ああ……少し厄介な事件だ」

妻のための花を選びながらイーサンは答えた。一般人に事件の話を詳しくする事は躊躇われるが、ロルフは聞き上手なのでつい喋ってしまう。
警察と自分しか知り得ない情報は上手く誤魔化しながら、今日もイーサンは花を選び終わる頃には事件の概要をロルフに話してしまっていた。

「なるほど……事件、早く解決すると良いですね」

イーサンが選んだ花の彩りを見て、ロルフは少し花を足した。放っておくと同じような花ばかりを選んでしまうイーサンにとって、ロルフがそうしてバランスを取ってくれるのはありがたかった。
ロルフは花々の長さを切り揃え、手早く包む。いつもながら鮮やかな手つきだとイーサンが感心している間に、花束は出来上がる。

イーサンが選んだ大振りの花に、今回ロルフが添えたのは小さなアザミの花だった。

「お仕事、頑張ってくださいね」
「ああ。いつもすまないな」

出来上がった花束を抱え、イーサンは花屋を後にした。
状況は全く変わっていないのに、ロルフと話したことで掴み損なっていた事件に関する何かを掴んだような感覚がして、イーサンの心は随分と軽くなっていた。

程なくして、事件は進展を見せる。
被害者がとある組織の一員だったという情報を手に入れたイーサンは、容疑者を絞り込むことに成功し、やがて犯人を追い詰めたのだ。

殺人の動機は、組織を裏切ったことへの報復。
奇しくもそれは、あの日ロルフが花束に足したアザミの花言葉と同じだった。