額縁

私の兄は有名な陸上の選手だった。
数年前に引退して、結婚を機に家を出てしまったけれども、兄の輝かしい成績は今も家の至る所にある。

例えば賞状。一番いい成績を収めた時のものはもちろん、今まで兄が手にしたものは残らず家のあちこちに額装されて飾られていて、そんな中には私が小学生の時に取った読書感想文の優秀賞の賞状も同じような顔をして混じっている。
兄に比べてあまりにもつまらない成績のものだったから、幼い私はそれを恥ずかしく思えど誇らしく思うことなどなくて、どうして飾ったりするんだと父を責めたことすらあった。
けれど父は、

朱美あけみが一生懸命頑張ったことには間違いないだろう。
だったらこうして飾ってあげなくちゃ」

と笑った。
すると、つまらないと思っていた私の成績が、なぜだか今ではとても誇らしいものに思えてきたから不思議だ。

そんな父と私は今、本棚の整理をしている。父の学生時代のアルバムを探すためだ。
目的のものはすぐに見つかったけれども、ついでにもう読まない本を処分してしまおうと父は思ったらしく、大きな本棚を二人でひっくり返している。

本棚の半分ほどを整理し終わって、「少し休憩にしよう」と父が言った。父は本に囲まれて身動きが取れなかったので、私は二人分のお茶を注ぎに一旦部屋を出た。
お茶とお菓子を持って父の元へ戻ると、父は何かを見ていた。
何を見ているのだろう? 気になってそっと覗き込むと、それは黄ばんだ四つ切りの画用紙で、精緻なデッサン画が描かれていた。

「それ、どうしたの?」

声をかけると父はびくりと肩を振るわせた。そんなに驚くことだろうかと思いながら、私は父にお茶とお菓子を差し出した。父は「ありがとう」と言って画用紙を脇へ置いた。

「上手な絵だね」

私がそう言うと、父はまた「ありがとう」と言った。

「お父さんが描いたの?」
「高校生の頃にね。美術の授業で描いたんだ」

昔を懐かしむ口振りに、さっき見つけたアルバムの中の若い父の顔が重なった気がした。

「先生がすごく褒めてくださってね。美術の学校に進みなさい、なんて言われてね」

父はしみじみと「懐かしいなあ」と言った。

「お父さん、美術の学校に行ったの?」

初めて聞く話に私が驚いていると、父は「ううん」と首を横に振った。

「行きたかったけど、行けなかったんだ。うちの母親──おばあちゃんはとても厳しい人でね。
絵なんて描いて遊んでいないで、ちゃんと勉強しなさいって、怒られたよ。
他にもいろんな絵を描いたんだけれど、そう言われて全部捨ててしまったんだ」

そこで一旦言葉を切って、父はため息を一つついた。

「でも、この絵だけはどうしても捨てられなくてね……やっぱり、いろんな人に褒められたからかな」

ずずず、とお茶を飲んで父は、「この機会だし、捨てちゃおうと思うんだ」と絵を横目で見た。
その顔が、本当は捨てたくないんだ、と言っているように、私には思えた。「お父さん」と、たまらず私は呼びかけた。父はあくまで穏やかに「なんだい?」と言った。

「この絵、飾ってあげようよ」

私はなんだか必死になってそう言っていた。父は驚いたように目を見開いた。

「だって、お父さんが一生懸命頑張って描いた絵だよ。だったらちゃんと、綺麗な額に入れて、飾ってあげないと」

さらに必死になって私は言い募った。父は黙って私を見ている。

私は、家のあちこちに飾られた、私たちの賞状を頭に浮かべていた。
父が私たちの頑張りを残らず丁寧に額装して飾るのは、本当は父がそうして自分の頑張りを自分の家族に認めて欲しかったからなんだと、私はやっと気がついた。
父は、この絵はいろんな人に褒められたと言っていた。精緻なデッサン画は一種の迫力のようなものがあって、父がどれだけ一生懸命にこれを描いたのかが伝わってくるようだった。
けれども父が一番褒めて欲しいと思っていた家族には褒めてもらえなかった。そのことはきっと、父の中に大きな傷を残している。

だったら、と私は思う。
私だって父の家族だ。少年だった頃の父の頑張りを、家族の私は目一杯褒めてあげたいと思う。
父が私のつまらない成績をも喜び飾ってくれたように、私だって父の頑張りを、魂を込めて描いたこの絵をちゃんと認めてあげたい。
そうすることで、父の傷が少しだけ癒える気がしているのだ。

本当は私の想いが全て私の言葉に乗ればいいと思う。
けれど私はどう言えば父にこの想いが伝わるのかがわからなくて、ただ「明日、額縁を買いに行こう」と言うだけだった。
父はそこでやっと「ええ……?」とすこし困った顔をした。その顔が今度こそ、アルバムの中ではにかんでいた少年の顔と完全に重なった。

「ええ? じゃない。約束だからね」
「はあ……わかりました」

私の強引さに父は降参したようだ。仕方ないなあと言いたげに、お茶の残りを全部飲んでしまう。
私はそんな父と、父の描いた絵を交互に見て、どんな額縁を買って、家のどこに飾ろうかと考えていた。