深野 大基 は心底腹立たしかった。
そんな言葉にすれば、何やら名作らしい気配ぐらいは漂うのではと期待したが、無駄だった。
だがそれほどまでに深野は腹立たしく、そして退屈だった。
広い会場の随所に備え付けられたスピーカーから拡散される声、いや、話の内容に、一体どれだけの舌打ちと欠伸を押し込めたか深野は分からなくなる。
祝辞を送る場であるはずなのに、大手ファンドの代表だと言う男の口からはかけらほども祝福の言葉が出てこないのだ。
「ご存じの通り、この娘は一族の中でも特に卑しく
……いやはや、良くもまあ嫁の貰い手が有った物だと」
再三の悪口に辟易しながらも耳に響く声を追いやれずにいるのは、直後に深野の出番が控えているからに他ならない。
そうでなければこんなに意地の汚い話も、本日の主役であるはずの花嫁に対する罵詈雑言も、とっくに意識の外へ追いやっている。
いい加減に足腰がだるさを訴え始めるのを感じながら、深野は演壇上の男を睨んだ。
鷹司 家――かつて五摂家の一角を担っていた由緒正しい名門だ。
古くから各界に顔が利く著名人を数多く輩出しており、その一族の娘が嫁ぐとなれば、結婚披露宴の規模も一般家庭の比ではない。例え分家の末娘を祝う席で有るといえどもだ。
だが皮肉にも、式の規模と内容は比例しないものらしい。
長い脚を持て余し、壁に背を預けたままに、深野はぐるりと場内を見渡した。演壇と高砂席のみが明るいため、会場の隅からはこの上なくテーブル席の全てが良く見渡せるのだ。
こんな堂々巡りの話に客席はどのような面持ちでいるのだろうか……結果は殆ど深野の予測した通りだった。豪奢に煌めくシャンデリアも、馥郁たる香りを放つ花々も、食欲をそそる料理の数々さえも、すっかり興を削がれている。
そんな中、そのうちの一人と思いがけずに目が合う。彼こそが深野をこの場に招待した人物であり、深野の友人だった。
何とかしてください――そう訴える目つきに、なるべく頑張ってみるけども、と目で返し、また嘆息を押し殺しながら深野は花嫁へと視線を移した。
金屏風を背にした彼女の目鼻立ちは、今しがた視線を投げかけてきた男とよく似ていた。
あれだけの暴言を浴びせられながら、それでもまだ彼女は涙を見せていなかった。しかしどうやら限界はすぐそこまで迫っているらしい。
綺麗に結わえられた黒髪は先ほどよりも俯き、格調高い色打掛に身を包んでいるにも拘らず、その膝の上で揃えて置かれた手はぐっと強く握りしめられている。
こと女の子にとって、花嫁と言うのは憧れの象徴に違いない。
なのに門出の日にこんな辱めを受ける羽目になった彼女は、一体何をしたと言うのか。
せっかくの晴れ舞台が、断頭台になってしもてる。あんまりや。
心の底から彼女を可哀そうに思っていたその時だった。
ギリ、という歯ぎしりの音が深野のすぐ隣から響いたのだ。
不思議に思ってそちらを見下ろすと、花嫁と同じ、少し癖付いた黒髪の旋毛がそこにはあった。
その左手に、先ほどまで彼の内ポケットにあったはずのメモ帳が収まっているのを認めて、深野は声を潜めてそっと話しかけた。
「それ、どうしたん?」
すると彼は驚いたように肩を震わせて、思わずといった調子で深野と目を合わせた。黒々とした一重の瞳を持つ整った薄味の顔立ちは、断頭台で衆目を集める花嫁とよく似ていた。
鷹司の人間――いや、花嫁の兄であることは、誰の目から見ても明らかだ。
驚き固まる彼の様子に、深野はそっと微笑んで言葉を変えた。
「珍しいやん。由 が行儀悪くラクガキしてんの」
流石名家と言うべきか、鷹司家はよほど品よく子供を育てるらしい。
芸人という職に就いているにも拘らず、絵に描いたように品行方正な性格の鷹司由は、例えどれだけくだらない話でもきちんと背筋を伸ばして聞いているのが常だ。不機嫌を態度に表すなんてまず有り得ない。
その由が、今や深野と同じように壁に背をもたせかけているのだ。
暗闇の中でそっと伺い見た右手にはボールペンが握られている。自己陶酔極まりない演説を聞き流し、何かを書きつけていたことを察するには十分だった。
深野の言葉と表情に、由は「別に」と視線を逸らし、その形の良い口元を硬く結ぶ。何かを言おうとして押し込める時の由の癖だ……無理に聞かないほうが良いだろう。
深野は話題を変えるべく、軽い調子でこう言った。
「まだ全然終わる気配無いし……今のうちに、もういっぺんネタ合わせしとくか?」
ちら、と再び演壇を見やる。抑揚のない話は未だに終わる気配がない。
ならばこの退屈な時間を芸を磨くために使おうと、深野は考えたのだ。
漫才コンビ『表面張力』――芸人としての二人の肩書だ。
結成から七年を数えた今なお、レギュラー番組一本も無しの売れない漫才師であり、由に至っては鷹司一族の変わり者だ恥さらしだとまで言われるような有様である。名家の祝いの席で漫才を披露できるのは、親しい家族がそれを望んだからに他ならない。
それでも真面目な由は、せっかくいつも応援してくれている妹のハレの日だからと、舞台と地方営業とバイトの合間を縫って一日限りのネタを書き下ろした。深野もまたその熱意に応えるべく懸命に稽古に励んだ。
ネタは体にしっくりと馴染み、すでに十二分に仕上がっているという自負があるが、出番を前にしてこんなに会場の空気が悪くなるとは全くの想定外だった。
そうでなくとも、ネタ合わせにやり過ぎなど存在しないことを、深野も由も経験上よく分かっていた。
だが、
「……ごめん、深野」
震える小さな声で、由が突然謝った。
深野は驚き、目を見開いた。
どうした? と問おうと口を開いたのを、しかし由は遮ってさらに衝撃的なことを言う。
「ネタ、変えたい」
そして驚き目を見開く深野に、メモ帳が握られた左手を、ずいと差し出してきたのだ。
その手が声と同じかそれ以上に小刻みに震えている様子に、深野は目を瞬かせて改めて由を見た。
震えているのは、左手だけではなかった。由の細い体の全てが震えていたのだ。
……ああ、そうか。
改めて由を見る。本番直前にいきなりネタを変えるような、危ない橋を自ら望んで渡る男ではない。余程のことがない限り……そしてこれは、その『余程のこと』なのだ。
キュッと形の良い唇を噛みしめ、悔し気に眉を寄せて全身を震わせながらも、深野に断られると考えているのか、僅かに正面から反らされた目元は潤んでいる。
その表情までもが、金屏風の前で辱めを受ける花嫁に瓜二つだった。
それほどまでに由は憤っているのだ。そんな由に、相方として深野が出来ることは。
「ええよ、やろう」
そう言って握りしめられた左手に触れると、由が驚愕の顔で見上げてくる。その拍子に緩んだ指先から深野はメモ帳を引き抜いた。
そこには由がいつも持ち歩いているボールペンで、漫才のネタが書き殴られていた。
「ここ、言い回し変えよう。『ハゲタカ』のとこ――」
「……おまえ、何で」
由はいまだに信じられないような面持ちで深野を見上げている。
そんな由に、深野は「何で、て」と言葉を返した。
由が書きつけたネタは、まさに『書き殴られた』という言葉がこの上なくふさわしい、怒りに震えて乱雑な筆致で綴られていた。誤字や書き損じも多い。
暗闇の中でペン先が滑ったのだろう、手汗でよれた安物の紙にインクは滲み掠れ、所々に穴まで開き、散々な有様だ。
しかし最も酷かったのはその内容だ。
今なお演壇に立ち続ける男を非難するこの漫才は、格式高い披露宴の余興としては不相応だ。
しかも相手は、定刻を過ぎてもなお花嫁への暴挙が許されるような金融界の重鎮だ。
はっきり言って、命知らずな上に独善が過ぎる。
もし失敗すれば二人の漫才師としての信用が地に落ちることは想像に難くない。由に至って言えば二度と鷹司姓を名乗れなくなるかもしれない。
どう考えても限りなく分が悪い博打だ。
それでも深野には、この乱雑極まりない台本に何が書かれているのかが手に取るように分かった。
それほどまでに深野は由に、そして花嫁に同調していたのだ。
ならば、この大博打に乗らない理由がどこにある?
「何で、て。俺が、やりたいから」
それ以上に何が要るのだろうか。嘘偽りない本心から深野は真っ直ぐに由の目を見た。
すると由は俯き、ボールペンで側面が汚れた右手で口元を抑えた。
うう、と呻いて眉をハの字に寄せ、酷く歪んだ顔を咄嗟に隠した彼を、しかし深野は「由」と遮った。手を伸ばして軽く肩を叩き、言外に「しっかりしろ」と伝える。
「泣くのは後。全部終わってから。ほら、稽古しよ」
「……っ、わかった……深野」
「うん?」
「ありがとう」
伏せていた顔を上げて、一重の黒々とした瞳が真っ直ぐに見上げて来る。
そこに立っていたのは、妹の受けた仕打ちを悲嘆する兄ではなく、この逆風の中を滑空してみせるという気概に満ちたプロ漫才師・鷹司由だった。
どうせ元々売れていないのだ、今更失うものなど何もない。
だったら己の思うがままにやり切って、敢え無く地に落ちるぐらい何だというのか。
そんな覚悟を由に認め、深野は素直に「どういたしまして」と、この愚かで愛 しい鷹の片割れとして共に飛ぶ決意を返事に込める。
たとえ地に落ちたとして、また二人で飛べばいいだけのこと。
ならば漫才師として二人がすべきことは、ただ集中して芸を我が物にすることだけだ。元が支離滅裂な殴り書きであろうとも関係ない。
比翼の鷹が互いに翼を動かし空を舞うように、稽古の中で二人には当たり前のように互いの呼吸が見えていた。一言一句が互いの言葉と身振りと表情で芽吹いていく、弾む、熱を持つ。
そうしてこの先の全てを賭けた漫才が命を得たのと、悪夢のようなスピーチが終わりを告げたのは同時だった。
疲れ果てた司会者に『表面張力』と名を呼ばれ、深野は由と共に用意されたスタンドマイクの前へと立つ。袖から見ていた以上に会場の空気は最悪だった。
やっと長話から解放されたのに、これからまたくだらない漫才を見せられるのか、と言いたげな寒々とした視線が会場のそこここから突き刺さる。
表面張力をこの場に招待した友人と花嫁からの必死で縋る視線も、痛いほどに肌身で感じる。
この舞台は、この漫才だけは、絶対に失敗できん。
腹を括った深野は、一度大きく息を吸う。
そうして会場中に響く大きな声で、第一声を発した。
***
「おまえほんまに泣きすぎや! 主役がそんなんでどうすんねん!」
「せやかてお兄ちゃんも酷い顔やんかー!」
鷹司兄妹はそっくりに泣き腫らした顔でそんなやりとりを繰り広げていた。
しかしその涙は悔しさからのものではなく、心の底からの笑い泣きだ。
深野はそんな二人を遠巻きに見ながら、ようやく胸を撫で下ろして、お開きとなった披露宴会場をぐるりと見渡した。
良かった、誰も暗い顔してへん。
祝宴中は落とされていた照明がすべて灯った会場内は、明るいだけでなく温かい空気に満ちていた。
この空気を作り出したのは他でもない、表面張力の漫才だった。
――黙れハゲタカ!! おまえの食事風景のほうがよっぽど卑しいわ!!
ツカミが終わり、由が叫んだ瞬間、会場は絶対零度を記録した。
彼らの代名詞である『毒』と『狂気』に驚愕の表情で凍り付いた客席をゆっくり見渡し終わって、深野は言った。
――由、それは本物のハゲタカに失礼や。
あえて呆れたように、とぼけたようにそう言って、そこから数度は間の抜けたやり取りを続けた。緩やかに空気を解しながら、金融の世界ではあの男のように意地の汚いやり口を『ハゲタカ』と言うのだと仕込んだ。
そうして固唾を飲んでやり取りを見守る観客たちを前に、最高に研ぎ澄ました決定打を放ったのだ。
――ついでに言わしてもらうと、ハゲタカ言う鳥はいません。
――ほな、あそこにいるのは?
――知らん。鷹の成りそこないやろ。つるっぱげの。
――お前のほうが失礼やろが!!
漫才が終わった直後、拍手は起きなかった。
それなりに笑いはあった。
やり切ったという実感もあった。
しかしいくら最低の祝辞だったとはいえ、一族の重鎮を扱き下ろすネタはやはり不相応だったかと、流石に深野が不安になりかけていたその時、
パチパチパチパチ
乾いた音が場内に響いた。
弾かれるように頭を上げた視界に飛び込んできたのは、一人の男が立ち上がって、表面張力に拍手を送る様だった。
他でもない、深野をこの場へ招待した友人だ。ずっと縋るように表面張力を見ていた彼は、目に涙を浮かべていた。
すると、拍手の音が一人分から二人分へ、二人分から四人分へとさざ波のように広がって行った。彼の称賛を皮切りに、様子を見守っていた他の観客が続いたのだ。
呆然とする深野を置き去りに、さざ波は瞬く間に観客総立ちの喝采となって表面張力へと降り注がれた。
そして、彼らを称えたのは客席だけではなかった。
度重なる侮辱を受けても涙一つ見せなかった気丈な花嫁が、金屏風の前で顔を伏せ、肩を震わせていた。
美しく施された化粧は流れ落ち、そこに居たのはまだあどけなさが残る一人の少女だった。
両手で顔を覆い子供のように嗚咽する彼女の反応に、足元から立ち昇ってきた歓喜が衝動となって深野が由の顔を見たのと、由が深野を見上げたのは同じだった。
花嫁と、そして最初に拍手を届けてくれた深野の友人とよく似た一重の目は、信じられないとばかりに大きく見開かれていた。
ただただ愛する妹の、人生に一度の晴れ舞台をこのまま台無しにしたくないという、たったそれだけの願いで作られたネタが、ここまでの喝采を浴びることになるなど全く想定していなかった。そんな驚愕に彩られた由の唇が何かを深野に言おうとしたその時、司会者が表面張力の名を呼んだ。
名残惜しいのは分かるが、進行があるので退場してくれと言外に言われたことを察知した二人が再び客席に向かって頭を下げると、彼らの退場を惜しむ喝采が一段と大きくなった。
鳴りやまない盛大な大喝采は、自己陶酔のくだらない話を再三繰り返した最低なハゲタカへと襲い掛かり、完膚なきまでに息の根を止めた。
そして、芸人であるが故に一族から冷遇されていたにも拘らず、自らが信じるその芸で、一世一代の大勝負に勝った由こそが誇り高き一羽の鷹であると、これ以上なく雄弁に認めていた。
そのことが深野には何よりも誇らしかったのだ。その思いは、全てが終わった今でもこうしてずっと続いている。
少し離れた場所で家族と話す由の顔はどこまでも晴れやかだ。
と、そこへ、
「どっちにしろ二人とも酷い顔やわ」
言い合う兄妹の間にそっと割って入ったのは件の友人だ。その彼に由が「おまえなあ!」と言う。
「人のこと言えんやろが! おまえが一番目元赤いぞ」
「そうやそうや!」
不満げに口を尖らせる由に花嫁が同調するのを「俺はまだマシやろ!」と否定する彼は、深野の友人であると同時に由の弟であり、花嫁のもう一人の兄だった。泣き腫らしただけでは足りずに何度も涙を拭ったらしく、その目の周囲は深野から見ても真っ赤に腫れていることが良く分かった。
あわや台無しになるところだった妹の披露宴が大団円を迎えたこと、それをもたらした漫才師の兄が一族に受け入れられたこと、その両方が彼にとっては感慨深かったのかもしれない。
ほんまに、仲のええきょうだいなんやな。
三兄妹の様子に知らず深野が目を細めた丁度その時、ふと改まったように鷹司の次兄が咳払いをした。
「って、そんなんどうでもええねん。今から家族写真撮るから来いって、父さんが呼んでるんや」
彼が示す先には既に花婿と両家の父母が居て、今か今かと花嫁を待ち構えている様子が見て取れた。それを見て由と花嫁が「そう言うのは先に言え!」「どうでも良くなんかないわ!」と笑いつつ、三人揃って歩き出そうとする。
その仲睦まじい様子を遠巻きに見ていた深野だったが、ふと次兄はそんな深野を振り返って、こんなことを言った。
「深野さんもですよ。兄貴の相方てことは、家族も同然です」
それは何とも飾り気のない口調だった。片眉を上げた表情には茶目っ気と、当然でしょう、と言いたげな含みがある。その言葉に由が、何を言い出すねん! と言いたげに弟を見てもどこ吹く風だ。
突然のことに深野をそろそろと伺う由の様子は、先ほどまで威勢よく誇り高く鳴いていた猛禽類とは程遠い。
それを思って深野は一つ笑った。
たかが相方が隣に並んで家族写真に写ることを戸惑う由とは裏腹に、『家族』と言われた深野は感慨深かったのだ。断る理由などどこにもない。
「せやなあ。そしたら、遠慮なく」
そう快諾して深野はぎくしゃくする相方の隣へ合流した。新郎新婦を中心に据えた一家に迎え入れられ、その一員として並び立つ。
戸惑っていた由の肩からは、シャッター音が響くごとに力が抜けていく。だから深野は思いついたのだ。
「由」
カメラの目が沈黙したのを見計らって、深野は相方を呼んだ。
ん? と何気なくこちらを向いた肩を引き寄せ、彼が何かを言う前に自らのスマホを掲げてセルフィーを撮る。
「ちょ……おまえ、何を」
「ん? なんとなく、撮っとこうて思て」
眉をしかめた由へ撮影したばかりの写真を見せる。
未だ祝賀の残り香が漂う披露宴会場を背に、幸せそうに頬を緩めて映る自分たちこそまるで永遠を誓い合った生涯の伴侶のように見えて、深野は由へ笑みかけた。
この先も芸の世界に生きていく。
時には今日以上の困難が訪れることもあるだろう。
病める時も健やかなるときも互いを思いやれる保証などないし、互いを繋ぎとめる指輪も誓約も何もない。
それでも深野には確信があった。
誰が何と言おうとこの関係は運命で、この先も一生由が隣で共に羽ばたいてくれているという確かな未来が。
それさえあれば、深野は他に何もいらない。
「この先もずっと、よろしくな」
