そして明日も洗濯をする

洗濯物を回す際は、予め分類分けをしておく。シャツ類、ズボン類、下着類、靴下、と言った具合だ。

シャツ類を洗濯機から取り出して、代わりに靴下類を投入し、再度洗濯機のスイッチを押すと、大きめの洗濯籠二つに分かれた洗濯物の片割れを才蔵へ、もう一つを自らが抱え、一郎丸は屋上へと歩き出す。

『洗濯機から結構遠いから、一兄も当番の時気をつけるんだぞ!』

とは、一足先に洗濯当番に当たった三郎丸の弁だ。
体が小さな三男が言ったほどに大変な距離には、一郎丸には感じられなかったのだが、洗濯したばかりでまだ充分に水気を吸ったままの衣類を抱えて屋外階段を上がるのは骨だった。
これは明日の当番を言い渡されている二郎丸にも、くれぐれも気をつけるように言ったほうが良いだろうと心に決める。

屋上には、心地よい風が吹いていた。
隅にまとめられていた竿掛けを才蔵と共に組み立てていく。
チームメイト二十五人分の洗濯物全てに満遍なく風が当たるよう、しかし広げすぎて干しきれなくなってしまわないよう、才蔵の指定した場所へ順序良くだ。

「手際が良いな」
「慣れてるだけさ。その足、もう少し左へ寄せられるか?」

彼の指示はいつだって的確だ。こんな時でさえ一郎丸は、動きやすさを感じていた。

銀色の干し竿が全て竿掛けにかかると、屋上は随分と狭くなった。
さらにそこへ洗濯物を順序良く干していくと、たちまち視界は大小様々なシャツで埋め尽くされる。
水気のせいでまだ重い彼らは風を受けても翻らないが、そのうち優雅に泳ぎ出すだろう。
湿っていていつもより色濃い練習着の群れを見ながら、一郎丸はその光景に思いを馳せた。

「手際がいいな」

先程かけた言葉がそのまま自分へと返ってきたので、一郎丸は驚いた。「何が?」

「濡れたTシャツのひっくり返し方とか、洗濯物同士の間隔とか。
あと、ハンガーにかける前にちゃんと皺を伸ばしてからかけるところとか。
家でちゃんと手伝いしてるやつのやり方だ」

そう言って才蔵は三つ目の洗濯籠を下ろして笑った。
その正体は色移りを懸念して別の洗濯機で回していた色柄物だ。
それに気づいて一郎丸は眉間に皺を寄せた。
才蔵だけを一人で往復させてしまったことへの後悔だ。

「すまない」
「え? 何が?」

首を傾げた才蔵に、「俺も行くべきだった」と重ねて謝罪をする。

「ああ、気にするなよ。大した量じゃない」

籠の中から取り出した、一際赤いウェアを振り捌きながら――サイズからしてひでまるのものだろう。
才蔵が穏やかに笑う。

「声を掛けなかった俺も俺だったし」

きっぱりと言い、手早く赤いウェアをハンガーへ掛けてしまうと、才蔵は洗濯物の海を泳いで空いた場所がないか探し始める。
一郎丸が残りの洗濯物を見越して空けていたスペースを指し示すと「やっぱり手際がいい」と今度ははっきり笑った。

「恐らくここに全て干せると思うが……」

一際中身がカラフルな洗濯籠を引き寄せて一郎丸は言う。

「俺もそう思う」

相変わらず鮮やかな手つきで二着目を振るい――さっきと似たサイズだが三郎丸が愛用しているものだ。才蔵が同意する。

才蔵はよく通る声をしているが、お喋りな方ではない。
一郎丸もあまり口数の多い方ではないので、二人の間には度々沈黙が訪れる。
互いに何も話さない中、バサバサと水を切る音と、パンパンと皺を伸ばす音が支配する。

足元のグラウンドからは、他の選抜メンバーたちが練習に精を出す様子が響いていた。

「エースとキャプテンが同時に欠けるなんて」

徐に才蔵が苦笑いする。「そんなことありえると思うか?」

「様々な状況を鑑みてのことだろう。監督も、老師も、何かお考えが有ってのことだ」
「お前が怪我で、俺がレッドカードとか?」

逆かもしれないじゃないか。と思ったが、一郎丸は敢えて声に出さなかった。
結果的には二人ともピッチに立てないことに変わりはないのだから。だが、

「たいていGKはコート上で治療されるから、俺が怪我で退場するなんてありえない」

才蔵は一郎丸の考えていたことを読んだかのように言った。
軽い調子で言う才蔵の左頬を思い出して、一郎丸は顔を向ける。
けれど彼は傷のない右頬を向けていたので叶わなかった。
それでも才蔵には一郎丸の挙動の意味が分かったらしい。

「あ。悪い、そんなつもりで言ったわけじゃなくてな」
「……いや、すまない」

不器用な沈黙が落ちた。

あの時――一郎丸が才蔵に大怪我を負わせた試合では、流石の才蔵もゴールマウスを去らざるを得なかった。
同時に、一郎丸も危険プレイと判定され退場を言い渡されたが、たとえフィールドに残っていたとしてもあの後まともな試合が出来なかったであろうことは想像に難くない。

己の心の弱さは、よく知っている。

ひでまると出会い、一年振りに才蔵と会話をして吹っ切れたつもりだったが、こうして些細なことで揺れ動いてしまうのだから、傷はまだ癒え切っていないのだろう。
キャプテンとエースが試合に出れない状況――一郎丸の脳裏に浮かんだのは間違いなくあの時のことだった。

階下からは止むことなく活発な声が響いてくる。
どうやら代理でキャプテンを務めているのは、今日の洗濯係を言い渡されなかった、背の高いもう一人の同級生のようだった。

「『てきかく』だよな」

才蔵がしみじみと言う。「俺が本当に退場になったら、キャプテンは登に任せるから」
一郎丸は頷く。才蔵の考えを汲んだ指導陣の采配も、代理キャプテンの戦術も、彼自身の素質も、全てが充分だった。

「俺さ、てっきり今年のキャプテンはあいつがやるんだと思ってて」

独り言のように静かな声。
だが、一郎丸には反応を窺っていることが気配でわかる。
微かに頷くことで、無視をしていないことを才蔵に伝える。

「去年までと同じように気楽なつもりだったんだ。
そしたら、合同練習初日の一週間ぐらい前にさ、監督から電話が掛かってきて」

思い出したのだろう。
才蔵は軽く肩を揺らして密かに笑う。

「親父とひでまるは騒ぐし、お袋は感極まって泣くしで、宥めるのが大変だった」

才蔵一家との面識は殆どないが、その様子を想像して一郎丸までもが肩を竦める。「大変だったんだな」

「大変だったさ。優勝したわけでもないのに大騒ぎで」

干したハーフパンツを叩いて根元の皺を伸ばしながら才蔵は「困った家族だよ」と再び笑う。
一郎丸は裏向きにひっくり返したウェアをハンガーの丸みに合わせて丁寧に掛けて「良いじゃないか」と返す。
言葉とは裏腹に才蔵が彼の家族を大切に思っていることが伝わってきたからだ。

「お前自身はどうだったんだ?」
「俺?」

屈んで次のハーフパンツを手に取りながら「うーん……」と才蔵は思案する。

「頭真っ白になってたな……
監督の言ったことが……なんて言うか、頭の中を素通りしていく感じでさ
音は聞こえてるのに、意味が拾えなかったよ」

立ち上がった才蔵と入れ替わるように、今度は一郎丸が屈む。

「電話終わった後もしばらくボーッとしててさ。お袋に『なんの電話だったの?』って聞かれて答えて」

そこからさっきの話に繋がるのだろう。
一郎丸は頷くと、淀みない手付きでウェアを振り捌く。

「興奮してる親父たちを落ち着かせてるうちにやっと、俺がキャプテンに選ばれたんだって実感が湧いてきて」

詰めすぎた洗濯物の間隔を少し広げながら、「けどさ」と、才蔵の話は続く。

「それでもまだ、俺にはキャプテンとしての自覚が足りなかったよ」

カシャン、とハンガーと干し竿が擦れ合う音が嫌に虚しく響いた。
ウェアをひっくり返しきれていないままの状態で一郎丸の手も止まる。
吹き続けていた風までもが止んでいた。
停止した時間の中、「足りなかったんだ」ともう一度、沈むように才蔵の声が落ちた。

「だって俺は、日本一になるなんて、考えても居なかったんだからな」

その声に含まれていたのは、反省と、後悔と、怒りと、不安と、その他いろいろなやりきれないもの。
中途半端な覚悟でキャプテンを務めていた己に対する非難めいたもの。
その感情は、一郎丸にも覚えがあった。

『本気で俺たちと試合したけりゃ、全国大会で優勝して、日本代表になるんだな!』

世界一の王座から不敵に見下すストライカーの声が、耳鳴りの渦から一際大きく反響する。

才蔵だけではない。一郎丸だってそうだ。
誰もがあの時やっと初めて日本の頂点を意識した。
情けないことに、焚き付けられるまで自分たちは、何がなんでも全国大会の優勝旗を持ち帰らなければならないなどとは全く思ってもいなかった。

それは間違いなく自分達にとって反省すべき事柄で、喩えるならば洗濯しても落ち切らない頑固な汚れのようなものだった。
様々な色や成分で形成されたそれは、落とし切るには時間と手間と特別な洗剤がいる。
そして一郎丸にはそのどれもが足りなかった。
自覚すればするほど汚れは際立って見えるもので、それは今も一郎丸を苛んでいる。

だから一郎丸は言った。「俺だってそうだ」と、才蔵に同意した。「知ってるよ」と才蔵は言った。

「けど俺は、キャプテンだから」
「それを言うなら俺はエースだ」

才蔵は「そうだな」と力なく笑った。

「だからこれは、俺たち二人が背負うべき重責なんだ」

そうして唇に笑みを浮かべたまま、瞳を伏せて静かに言った。
それから才蔵はやっと屈んで、次に干すハーフパンツを手に取った。
一郎丸もぎこちなくウェアを完全にひっくり返すとハンガーを掴む。
そうしながらも才蔵が言った言葉を考えていた。
重責を背負う覚悟が、果たして自分にはあるのかと。

本当に自分がエースで良いのか。背番号一〇番のユニフォームを与えられた時、そしてそれに袖を通すたび、一郎丸は自問し続ける。
それは真っ白に思えていたシャツに大小様々な汚れがあることを思い知るようなものだった。
汚れ一つを消せば別のものが気になってくる。
そんな日々を過ごし続けて今日まできた。
この汚れこそが背負わされた責任の大きさ、重さなのだと思う。

才蔵は、重責を背負う覚悟を決めたのだろう。
シャツに染み付いた汚れを落とし切ったのだろう。
グラウンドに立つ彼はいつも澱みがなく、大きな声を張り上げて飛ばす指示には迷いがない。
迷いがあれば間違いなくチームメイトに伝わっている。
洗濯物を干す、ただそれだけのことでさえ的確に指示ができるのだから、彼はキャプテンに向いている。

では自分は?

繰り返す問答に、ついに一郎丸の手の動きが止まった。
色鮮やかなジャージを掴んだまま、動かなくなった。そんな一郎丸に、

「あのさ」

不意に降り掛かってきたそれが、才蔵の軽い調子で発せられた声だと、咄嗟に一郎丸は気付けなかった。
驚いて彼を見ると、困ったような、それでいて安心させるような、複雑な笑みを浮かべていた。

「俺が言えた事じゃないけど……あんまり深く考えすぎるなよ」

続く言葉の意味を認識することもまた、一郎丸には時間がかかった。
さっきと言っている事が違う。
重責を背負うべきだと言ったのは、他でもないお前じゃないかと。言葉にはせず視線でものを言う一郎丸に、才蔵は「ええと」と一旦言葉を切って、それからゆっくりと続きを紡ぐ。

「うちって、かなり実力主義だからさ。誰からも文句が出てこない時点で、お前の一〇番は揺るぎがないんだ。
それは、一番長くここにいる俺が一番よく分かってる」

言葉を探している。あの、なんでもはっきりとものを言う才蔵が。
よく通る、意志の強い声が。
こんなことは珍しい。きっと誰もこんな彼を見た事がないのではと思う。
そうして、

「お前は、ちゃんとエースだよ」

ようやくはっきりと口にしたのは、その一言だけだった。
だがその言葉に、一郎丸は頷けない。

向いていないと思う。自分は。

それは、目の前にいる県下一の天才GKに一生残る傷を負わせてしまったという負い目と、傷を負わせておきながらサッカーから逃げた心の弱い自分を客観視してのことだった。
エースとしての重責を背負うには、自分はあまりにも脆い。
背番号一〇番のユニフォームは重く、いっそ返上してしまったほうが良いのではないかとさえ思う。
だが、一度与えられた役目を投げ出すような無責任なことはできない。
責任感の強さは一郎丸の最大の美点であり、汚点でもあった。
己にこびりついた大小様々な染みや汚れの中で、これは特別に黒々とした頑固な汚れだった。
それを消し去る術を、一郎丸は持っていない。
それを前に途方に暮れている。

そうして二人の間を長い長い沈黙が支配した。
返事をしない一郎丸に対して、才蔵はずっと言葉を探しているようだった。だが、

「……だめだ」

沈黙を引き裂いたのは、そんな才蔵の呟きだった。
力なく首を振って、そしてもっと力なく笑顔を作って、一郎丸に向けた。
こんな時でも変わらないその強い目力に、一郎丸は一つ気がつく。
才蔵は、自分の口から出る言葉の威力を知っている。
だからきっと、中途半端な言葉も間違いなく伝わってしまう。
そのことを誰よりも彼自身が恐れている。
だから彼はずっとこの場に相応しい言葉を探し続けて、そして諦めた。
より間違いなく自分の意思が伝わる言葉ではなく、思ったままを伝えようとしている。
これはそんな笑みだ。

「うまく……言えねえ。けど、言いかけた言葉を引っ込めるには、もう遅い。だから……言うぞ」
「ああ」

律儀なやつだと思う。
けれどこれこそが、彼がキャプテンに任ぜられた何よりもの理由だろう。
それに応えるべく、真剣に一郎丸は頷いて、静かに才蔵の言葉を待った。
互いの手には、互いのジャージがあった。

「よく言うじゃないか。困難はそれを乗り越えられるものにしか訪れないって。
同じだよ。エースとしての重責に耐えられると思ったから、お前はエースに選ばれたんだ
ちゃんと自覚して、向き合って、真剣に考えられるお前だからこそ、エースに相応しいんだよ」

そして左手で自らの傷跡をなぞる。

「これだってそうだ。ちゃんとお前は、俺たちは乗り越えられたじゃないか。こうして隣に立っている。だから」

そこで一度言葉を切った才蔵は、こう言った。「何もなかった頃には戻れない」と。

「なあ。汚れた服は買った時のようにはならないよ。
汚れを落としてもどうしたって痛むし、気に入っていればいるほど型崩れだってする
そんなのはもう織込み済みだから、無理に以前のように振舞おうとなんてしないでくれ」

その言葉が指し示しているのが何なのか、一郎丸には痛いほどに伝わってきた。
それは単にエースであることを不安に思う感情にだけ向けられた言葉ではない。
才蔵に傷をつけてしまった時にも、そしてこの先幾度となく訪れる困難においても、その度に迷って悩んで揺れ動いてしまう脆弱な心こそを肯定する、力強い言葉だった。

そうして一郎丸は思い知る。
才蔵はシャツの汚れを落とし切ってなどいない。
真正面から向き合って、その重責を背負い続ける覚悟を決めたのだと。
この先の苦難をも全て受け止め、見るも無惨な姿になってでも向き合い続ける決心を固めたのだと。
それこそが才蔵の強さであることを。そしてそれは、最初から備わっていたものではなく、こうして幾度とない苦境を乗り越えてきたから培われた強さであると。

一郎丸は俯いた。そして僅かに頷いた。
いきなり全てを変えることは難しい。
だが、シャツに染み付いた汚れの一つ一つと向き合って、少しずつ乗り越えて浄化していくことで、いずれは強くこびりついた大きな汚れとも向き合う強さを身につけていけたなら。
そうして今度は自分が才蔵を支えることができるようになれたなら。そう心に決める。

一郎丸は顔を上げた。才蔵の力強い目と真っ直ぐに向き合う。そして、

「……分かった」

たった一言そう言って、はっきりと頷いてみせた。
才蔵もまた大きく頷き、そして「ああ!」と一つ笑った。
その時、今まで止まっていた風がまた心地よく吹き始めた。
視界で洗濯物が気持ち良く泳ぐ。そして、

「おーい!」

ふと、階段のほうから元気な声が響いてきた。
二人がそちらを振り返ると、大きく手を振る神谷と、その後に静かに火山が続いて、屋外階段を登り切ったところだった。

「才蔵さん、一郎丸さん!」
「昼飯の時間です。降りてきてください」

二人の言葉に一郎丸は才蔵と再び顔を見合わせた。

「分かった」
「今行く!」

返事をしながら、才蔵と二人ずっと手にしていたジャージを手早くハンガーに掛けてしまう。
空になった洗濯籠を回収しながら洗濯物の海を泳ぎ切って屋外階段へ辿り着き、神谷たちに合流すると、四人は連れ立って階段を下り始める。
そのしんがりに居た一郎丸は、階段を下る前にもう一度屋上に干された洗濯物たちを振り返った。

いくら綺麗に漂白されても、新品とは違う。
何も知らなかった、何も背負っていなかった幼い自分と、いつまでも同じでは居られない。
変化を恐れず受け入れて、そうして俺はまた洗濯をする。
そうして少しずつ、一〇番に相応しい人間になっていくしかない。
そう、自らに言い聞かせながら、階段を下った。

 

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