5分きっかり。インスタントのうどんができあがったことを知らせるタイマーを、メロディーが流れ始める前に止める。
普段なら、湯を注ぐだけで簡単に出来てしまう便利さに寧ろ恐れを抱いてしまい、こういったものは口にしない登 アキラだが、今日ばかりは文明の利器に頼ることにした。
いつもにも増して静かな夜だった。己の指先から響くキーボードの音しかしなかった。新しい年を迎える為か、必要以上に厳かな空気が街中を包んでいる。いくら近代的な発達を遂げた都市であっても、この日ばかりは伝統と慣習に従いたくなるのが、日本人と言うものらしい。
『正月ぐらい、顔を見せなさい』と母親から先日もメールが来ていたが、『元日にはどうにも間に合いそうにない』と断った。親戚が集まる場所へ顔を出すのが億劫だったこともあるし、単純に仕事が忙しかった。年末の歌番組を流し見ながらも手を休める暇などなかったほどに。
できあがったうどんに、備え付けの薬味を振りかける。飯を食べながら仕事をすることも可能かもしれなかったが、いい加減明るい画面と睨めっこをし続けるのは疲れた。肩を回して、箸を取る。他に誰もいないのに、律儀に手を合わせた。結局のところ、登も日本人だということだ。
ちょうど同じころ、テレビから派手な音と光が飛び散った。番組がフィナーレを迎えたらしい。
「へえ、そう」
あまり真剣に見ていなかったせいで、どちらが勝ったと言われても、どの歌手も特に印象に残っていなかった。それきり登の興味は歌番組から遠ざかり、目の前のうどんに集中せざるを得なくなる。
普段から食べなれていないインスタントのうどんは、とても辛かった。どうして何も味のしないお湯を注いだだけだというのに、こんなにも辛い食べ物が出来上がるのか。やはり考えると恐ろしくなった。思わず顔をしかめてしまう。そんな登の耳に、つけっぱなしのテレビから鐘の音が響く。
百八つ。人の煩悩の数だけ撞かれる、年末の風物詩。いよいよ新年が来たらしい。
♪
アナウンサーの「あけましておめでとうございます」と言う声よりわずかに早く、登のスマホが着信を伝える。
こんな夜更けに、こんな時に。なんと律儀なことだろう。そんな知り合いが果たしていただろうか?
一体誰だ?と画面を見て、そこに踊る文字に少し驚いた。鳴りっぱなしの受話器を上げる。
「もしもし」
「アキラ、あけましておめでとう」
果たして電話の向こう側には──当たり前だが、画面が告げたどおりの人物がいた。
「おめでとう、でいいんだな?」
「ああ…って言っても、こっちはまだ朝なんだけどな。」
電話の主──千石 諒平はそう言ってからりと笑う。
登とルームシェアをしている、幼馴染でもあるこの男もまた、年末にもかかわらず仕事をしていて、一昨日からニューヨークへと飛んでいた。
「時差14時間か。時差ボケは平気か?」
「平気平気。ようやく慣れたとこだ。寒さは耐えがたいけどな」
白い息をひっきりなしに吐く千石の姿が鮮明に浮かんできて、登はくすりと笑う。
そういえば、彼が居ない年越しは初めてのことだった。同じ部屋に住み始めてからはずっと並んでテレビを観ていたし、小学生のころは一緒に初詣に向かった。
それではたと、登は千石が電話をしてきた意味に気づく。
「なに? 俺が無事に年を越せたか、心配した?」
少し悪戯っぽく口の端を上げて問えば、「ばあか。んなんじゃねえよ」と、不機嫌な声が響く。どうやら図星のようだ。
「この電話が通じてるってことは、お前はちゃんと年を越えたんだろ」
「はは、悪いな。先に行かせてもらった」
妙な感じだ。この電波は今、年の境目を浮遊している。新しい年と古い年の間を、繋いでいる。
日付変更線の向こう側にまだ、千石は居るのだ。
「不思議だよな。俺はまだ大晦日の朝の時間帯だってのに、もう新年の挨拶を口にしているぜ」
同じ事を考えていたらしい千石がどこかしみじみと呟く。毎年同じタイミングで超えていた年と年の境目が、今年はとてつもなく大きな口をあけて二人の間に横たわっている。なんとも変な感じがした。
そうか。もしかしたら、と登は思う。
もしかしたら、諒平が居ない違和感を埋めたくて、普段は食べないインスタント食品を食べて、こんなに遅くまで仕事を抱えて、普段は観ない歌番組を流していたのかもしれない。
「諒平こそ」気づくと登はそんな言葉を発していた。「何?」と千石が話の先を促す。
「諒平こそ、無事に新年を迎えられそうなのか」
何しろ今年は互いが隣に居ない。大きく口をあけた年と年の境目が、どちらかを飲み込んでしまうかもしれない。そんな錯覚を覚えたから、千石は登に確かめたのだろう。
千石は吐息だけで笑った。
「さあね。俺だけ12月32日に迷い込むかもしれねえな」
「それは困ったな。待てども待てどもお前が帰ってこない家で、一人居るのはとてつもなく淋しい」
それは本心だった。帰ってくると信じているから、待てると言っても過言ではないのだ。
「なっさけねえ声出すんじゃねえよ」
電話口の千石は、言葉とは裏腹に満足そうな声をしていた。登はそこにつけこんで、更に情けない心情を口にする。
「情けなくても、格好がつかなくてもいい。ついでに言うなら俺は慣れないインスタントのうどんで年越しをしたせいで、ちょっとばかり機嫌が悪いんだ。
……なあ、諒平。ちゃんとこっちに帰って来いよ。ただでさえ寒がりなお前が、ここよりも寒い街で仕事をしているなんて、心配が尽きない。無事に昨日を越えて、今日までやってこい。俺は14時間先で、お前を待っている。
もし不安だって言うなら、今度は俺から電話をするから」
いつの間にか、登は電話を強く握りしめていた。受話器の向こう、千石の声を聞き逃すまいと、意識を集中させる。
千石は、また密やかに笑った。
「言ったな?俺が無事に年を越せるか、水先案内人を引き受けるんだな?」
「ああ、甘んじて引き受けてやるよ」
そうして今度は二人で笑った。初笑いだな、と登は頭の隅で考えた。
「で、どうよ。そっちはいい年になりそうなのか?」
「さあね。何せこっちに来たばかりだ
……ああでも、俺の隣に千石諒平が居れば、いい年になりそうだ」
テレビが新年の活気に溢れる国宝の神社を映し出す。人々の顔はみな晴れやかだ。千石とも早く、この活気を共有したいと登は思った。
「んじゃ、まあ。頑張って超えますかね」
「ああ……待ってるよ。良いお年を」
向こう側に合わせたあいさつでもって、通話を終了する。再びテレビの音の他に何も聞こえなくなった静寂に耐えきれず、登は食べかけだったインスタントのうどんをいつもより豪快に啜った。
辛いスープをふんだんに吸って伸び切った麺はとても辛かったが、千石が隣に居ないせいだと無理に結論付けた。
あいつが無事に年を越せるように、忘れずに電話を掛けないとな。
覚悟を決めた登はテレビを消し、寝室へ向かった。時間きっかりに千石を迎えに行けるよう、今年は良い年だと胸を張って言えるよう、十分に睡眠をとって、格好をつけなければいけなかった。
