「記憶に栞を挟めたらいいのにな」
隣で洗い物をしていたエッカルトがふいにそんなことを言ったので、オドレイは首を傾げた。
「そうしたら、嫌な事を思い出すことも無いだろ」
意味を測りかねていたオドレイだったが、半端に捲った自分の腕を見下ろして、彼が何を言いたいのかを知った。普段から服で隠している彼女の白い腕には、幾つもの古傷がある。
腕だけではない。幼い頃から躾けという名の体罰を受け続けたオドレイは、服で隠すことのできない顔や手の先以外の全身に無数の古傷を持っている。ふとした瞬間に目に映るそれらは、オドレイをその頃の記憶に引き摺り込むことが多々あって、つい今しがたも傷を負った日の記憶に沈んでいたのだ。
エッカルトはそれを見かねたのだろう。
しかし、何故栞なのか。不思議に思ったオドレイはきちんと袖を捲ってから、エッカルトに尋ねた。「どうして栞なの?」
エッカルトは少しばつの悪そうな顔をした。「感覚的な話だ。人間を本に例えたらの話」と。彼は何でもはっきりと意見を言う性格で、こんな風に言うのは少し珍しかった。
「最初は、嫌な記憶が無くなっちまえば良いんじゃねえかと思った。思い出したくねえところを黒く塗りつぶしちまうとか、破いちまうとかな。
けど……頁の形を歪めたら本そのものが歪んじまうみたいに、人間もそうなっちまうんじゃねえかと思ってな」
相変わらず皿を洗う手は止めないままエッカルトは言う。
「栞を挟んだ頁より前は読み返さないだろ。けど、そいつはちゃんと存在してる。だから本の形は変わらない……そう言うのが有れば良いのにな」
そうして彼は手を止めて、オドレイの傷だらけの腕を見た。
「俺がお前の傷を全部残らず癒すことが出来たら、こんな下らない事考えなくて良いのにな」
それは心から悔いている声だった。傷を負っているのはオドレイのほうなのに、エッカルトは自分のことのように悔しく思っている。
オドレイは首を振った。「くだらなくなんかないよ……あのね」そうして彼を見つめて言葉を続ける。
「あのね……わたし、ちょっと前まで、水仕事をするのに袖を捲らなかったんだよ」
今度はエッカルトが言葉の意味を測りかねる番だった。けれども彼は急かすことなくオドレイの言葉の続きを待った。
こういうところが彼の優しさだとオドレイは思う。だから彼女は焦ることなく言葉を紡ぐことができる。
「捲って、傷痕を見るのがいやだったの。思い出しちゃうから。
今でも目に入ると思い出しちゃうけど、でもね、見ることはできるようになったの……多分それは、エッカルトが栞になってくれてるからなんだよ。
いやな思い出をずっと見つめ続けないように、エッカルトのいるページから先を、読み進められるように」
そうしてオドレイの唇はゆっくりと弧を描く。
「ありがとう……大好きよ」
するとエッカルトは反対に、唇をへの字に曲げてそっぽを向いた。
「は……別に感謝されるような事はしてねえよ」
隠しごとが苦手な彼の言葉からは照れが伝わってきて、オドレイはますますニコニコと笑んだ。
思い出したくない古傷を抱えるのはエッカルトも同じだ。だけど、その日々を彼の人生から無理やりなくしてしまったら、きっと彼は崩れてしまう。
だから抱えていくしかないのだ。そうして二人は出会ったのだ。
わたしもエッカルトの栞になれればいいのにな。そうしてお互いのこれからを、幸せで綴っていければどんなにいいかな。
冷たい水に手を沈め、洗い物を掴みながらオドレイは思う。
体の傷は癒えないかもしれない。けれど、辛かったあの日々の続きに現在と未来がある。
その道先をエッカルトが照らしてくれる。オドレイにはそれで十分だった。
