音もなく白息がその口から零れたのを見て、その人が笑ったのだとわかった。少しだけ口の端を上げたその笑みは、ただ静かで美しかった。
その人は常に眉間に皺を寄せていて、口が悪い。だから、まさかそんなふうに可憐に笑うなんて想像したことすらなくて、目を奪われた。
しかし、瞬きの合間にその顔はいつも通りの不機嫌そうな色を浮かべていて、それから目にすることはなかった。
けれど、どうしてもまたあの笑みを見たかった。できるならば、その吐息が零れる音を聞き逃さないぐらい近くで、自分だけに密やかに笑ってほしいと願った。
そうして冬が過ぎ、少しずつ春の陽気を感じられるようになったとある日のことだった。
中庭にあの人がいた。
笑っている。
もう白い息は見えない季節になったと言うのに、その人があの日と同じように、吐息を零すような静かで美しい笑みで、けれどもあの日一瞬だけ目にしたものよりずっと暖かで甘い顔で、笑っていたのだ。
途端に何故だかいけないものを見てしまったような気がして、反射的に身を隠した。けれど視線はその人に釘付けになったまま、離せなかった。
その人は誰かと何事かを会話しているようだったが、声は聞こえてこなかった。
ただ視線の動きや微細な表情の変化で、相手が何かを話しているのを真剣に聞いていることがわかった。相手の姿もここからでは見えなかった。
眼差しが常からのものよりずっと柔らかい。こんな顔は初めてだ。
ずっと眉間に皺を寄せ、眼光鋭く常から周囲を警戒している姿とは別人なのではないかとさえ疑った。
そして、いつもは硬質な雰囲気を纏うその人が、実はとても華奢で愛らしい姿をしていたことにはたと気付く。
気づいたと同時、またその人が、中庭の花々も霞むような実に可愛らしい笑みを浮かべているのを目の当たりにし、どきりと心臓が跳ねた。
一度跳ねた心臓はおさまらず、胸を突き破るのではないかという勢いで暴れまわる。
耳の奥に己の鼓動が響く。その人が零すかすかな吐息の音どころか、周囲の音という音が何も聞こえなくなる。
それでも視線は頑なにその人から離れない。そうしてどんどん鼓動が高まってゆく。
恋をしてしまったのだ。きっと、あの冬の日にあの可憐で美しい笑みを見てしまった時から。
だからもう息の白さもわからない季節になったと言うのに、あの人が密やかに笑っていることに気がついてしまった。
そうして自分以外の誰かに向ける特別な笑顔に、見惚れてしまっている。
そう自覚した。自覚せざるをえなかった。
これは痛みを伴う恋になる。きっと叶うこともないのだろう。
あの笑顔を向けられている相手はきっと、あの人にとって何よりも大切な人なのだ。
叶うならその相手は自分が良かった。
その唇が零す幸せな吐息を誰よりも近くで聞きたかった。
だけれども、そのためには今あの人が笑いかけている相手をあの人の前から消さなくてはならない。
そうしてまで自分がその立場に収まったとして、あの人は同じように自分に笑みかけてくれるとは思えない。
花は野にあるからこそ美しい。無理矢理手折って自らのものにして、何になる。
長い溜息が漏れた。
この恋は、墓場まで持っていこう。
あの笑顔が自分に向けられるものであろうとなかろうと、あの人が穏やかに笑うその姿を愛でることができればそれでいい。
そうして無理矢理に自分を納得させ、最後にもう一度その笑顔を盗み見て、その場を後にした。
自覚した途端に失恋に変わった恋は、未だに高鳴ったままの鼓動を鎮めることはできなかった。
春の暖かな日差しがただ、しくしくと痛む心と熱った顔に差し込んだ。
