暗闇の夜の静寂に穴をあけるように、その音は響いていた。

ぺん、ぺんと、弦を弾く指に皮と肉はなく、剥き出しの白い骨が音を生み出す。
何かの旋律をなぞるわけでも、弦の張りを確かめるでもなく、不規則にただ、ぺん、ぺんと。

「おことですね」

いつの間にか楽器を挟んですぐ向かいに、真っ白な兎が現れていた。
月に棲むと言われるこの兎は妖あやかしの類で、そのような存在に言葉を投げかけられるとなると、この白い手を持つ存在がどのようなものかであるかも想像がつく。

白い手は兎の言葉を聞き、弦を弾く指を止めた。

「これはことという」

光を失い白く濁った左目と、光を宿した黒い右目を楽器から放さぬまま、それは答えた。

「? こと、ですか」

兎はよくわからないと言うように、小さな頭を傾けた。
その様子を気にも留めていない風でありながら、その実白い手の持ち主は「これを」と兎に言葉をかける。

「この支柱で音の調整をする。琴にはこれがなく、指で押さえて音律を生み出すらしい」

そうして再度、ぺん、と弦を弾いた。硬い骨の指は弦を弾くための道具をはめなくとも音を生み出すことができる。兎は「ははあ」と納得した。

「全く別の楽器ということですか。ややこしいですね」
「そうだな……元来は別物だが、時の流れゆくうちに混同されてしまった。琴は消えつつある」

戯れというにはぎこちなく、また白い指は弦を弾いた。視線は相変わらず兎と交わらず、箏に向けられている。そこには確かに哀愁の色があった。

「この楽器、奥方さまが演奏しておられたのを覚えています」

兎の懐かしむような口振りに、白と黒の二つの瞳のうち黒いほうだけが僅かに伏せられる。──白いほうは火傷痕に縁取られ、閉じることができないのだ。

「……あれ、、が言っていたのだ。私は箏しか演奏したこともなければ、琴の音を聴いたこともない。元来この国にあったのは琴のほうなのに、新しい箏に場所を奪われてしまった。
時の流れには逆らえぬ。仕方なきことなのかもしれない……それでも私は琴があったことを覚えていたい。
だから琴を目にし、その音を聞いてみたいと」

伏せていた右目をゆるりと開くと、やっとそれを兎へと向ける。そこで漸く分厚い雲間から満月が顔を出し、彼らを煌々と照らし出した。
妖の兎と話していたその姿が露わになる。紅の着物を身に纏い、紅の被衣を被ったそれは、やはりというべきか、右の額に三本もの鋭い角を有していた。

真白ましろ

鬼が兎を呼ぶ。

「なんでしょう、うずみびさま」

名を呼ばれた白兎は、真っ直ぐにその顔を見上げた。
首から下には骨しかないこの鬼は、喉元と顔の半分ほどにしか皮と肉がない。しかもその顔の皮膚のうちさらに半分は火傷痕に覆われている。表情を読み取ることが難しい。

「我らも同じなのだろう……新きものに居場所を奪われ、ひっそりといる事しかできない。
どれだけ大事に思っていても、もうあれを思い返すことも少なくなってきた。箏を演奏する嫋やかな指先は思い出せるのに、それをなぞってしまえばたちまち消えてしまう気がする。
だから俺はこうして箏を引っ張り出すことはできても、演奏することができない。しかしそれは、世の節理なのだろう」

諦めと切なさの混じった声だった。兎はただじっと、鬼の顔を見た。
今宵は思いの外静かで、双方が黙り、鬼の指が弦を弾くこともなくなれば、ただ静寂が横たわるだけだ。

「それでも」

静寂を裂いたのは兎の声だった。

「それでもうずみびさまはここにおられます。こうして真白のそばに」

鬼は兎を静かに見つめた。

この鬼は、正確にはもう『鬼』とは呼べない。時の流れの中で崇拝を畏れに変質させた人間が、殺してしまったからだ。
そうして鬼が死神となってしまってもなおこの兎は、鬼に付き従っている。生前と同じようにただ側にいて、鬼に尽くしている。

「……そうだったな」

兎の言葉がどこまで通じたのかは分からない。だが鬼はもう一度目を伏せ、また弦を弾いた。

古びた弦が白い爪に引っかかりプツリと切れて、音は鳴らなかった。