くらげ

「何考えて生きてるんだろうな」

隣でテレビ画面を見ていた千石が不意に言ったので、登は彼を見た。深く考えて言葉を発したわけでなく、思いつきで言ったことが彼の様子から見て取れた。

テレビ画面に映っているのは、先日登がデジカメで撮影した映像だ。そこには二人で水族館に行った時に見たクラゲが映っていて、クラゲたちは不規則にふわふわと水中を漂っている。

登は少しだけ笑んだ。「何も考えていないんじゃないか?」と。

「クラゲには脳が備わっていないらしいから」
「それでも生きてるってのが不思議だよな」

目線をテレビ画面に向けたまま、千石はソファーの上で膝を抱えた。そのまま再び二人は黙ってビデオを見ていたのだが、

「俺らも、あんまり深く考えなくてもいいのかもな」

再び千石が呟くように言った。

「? どうしてそう思うんだ?」

意味を測りかねて登は聞いた。千石は「だってそうだろ」と言った。

「いろいろ考えて、悩み悩んで苦しんでサッカーを離れたはずなのに、結局はサッカーに関わる仕事に就くかもしれないところまできちまってる
どうせもう逃げられないんなら、余計なことは考えないほうが良いんじゃねえかって思うんだよ。
俺も、お前もさ」

千石の言葉に、登はじっと彼を見た。
相変わらず目線がテレビ画面に向いたままの千石は酷く無防備で、けれどもそんな彼の様子から登は、発せられた言葉が心から溢れ出した本音であることを思い知る。

登は中学卒業と同時にサッカーを辞めた。小学生の時の全国優勝経験から、才能があると自身も周囲も期待していたが、中学に入るともっと才能のある同世代が沢山いることを思い知った。
さらに、勉学に励みたかった登はサッカーに対して努力をすることが難しくなり、断腸の思いでサッカーを断念した。今でもあの当時の苦しさは鮮明に登に焼き付いている。
さらに悪いことに、登は千石からをもサッカーを奪ってしまった。絶対に日の丸を背負うにふさわしかった稀代のウィングバックを引き摺り落としてしまったという負目もまた、決して薄れない後悔として登にこびり付いている。

もう二度とこの人生でサッカーと関わることはないだろう。
そう思っていたはずだったのに、登に転機が訪れた。先日、教育実習先として訪れた母校で、経験者であることからサッカー部の手伝いをすることになったのだ。
そこで、サッカー部の顧問は天職だと思うから是非やりなさいと、監督の先生に称賛されてしまったというわけだ。

今更どの面を下げてサッカーと向き合えばいい。そう思うと登は称賛の言葉を素直に受け取れなかったのだが、その日から運命の輪が回り始めたように、登の周囲でサッカーに関する事柄が大きく動き始めた。かつてのチームメイトの海外移籍、ワールドカップでの活躍……。
そして千石もまた、ワールドカップに関する論文が評価されたことを機に、サッカー誌の記者としての進路を考え始めていた。そうして二人ともが、サッカーに対して抱いていた複雑でやりきれない気持ちと向き合わざるを得なくなってしまった。

激流に逆らっても無駄ということなのかもしれない。
最近とみに登が思うようになったことだった。
この大きな流れには、素直に流されたほうが楽なのかもしれない。
だが、それは思考の放棄ではないのだろうかと、そんなことで許されることなのかと、登は考えていた。

そんな登を見透かしたのかもしれない。先程の千石の言葉はそんなふうに登には聞こえた。
黙ったまま千石を見つめ続ける登に、千石はついにこちらを向いて名前を呼んだ「アキラ」と。

「お前はもう十分考えたし、努力だってした。だから、一回全部体の力抜いて、頭で考えることもやめて、楽に生きてみろよ」
「……諒平……」
「こいつら見てみろよ。何にも考えてなくても生きていけるし、こうやって何かしら俺らに思わせるんだぜ? 多分それでいいんだよ」

千石は首を傾げて「な?」と言った。そうしたほうがいい、そうしろよ、俺もそうするから。そんなニュアンスの仕草と言葉に、登は見入った。そんな登の手を取って、千石はさらに言葉を重ねる。

「お前、本当は今でもサッカー好きじゃねえか。
お前のメルアドはいつまで経っても昔贔屓してた選手のイニシャルと背番号だし、才蔵たちが出てたワールドカップの試合は生でも見て録画もしただろ?
もう自分を偽るのはよそうぜ」

覗き込むように目を合わせてくる千石に、登は知らずに視線を落としていた。そうして千石の言ったことを噛み締め、自らの気持ちを見つめ直す。
そうして見つかった答えはやはり、千石の言ったとおり、サッカーが好きだという気持ちだった。
この気持ちのまま正直に生きていくのは少し怖くもある。けれど、激流に逆らい続けるよりかは余程生きやすそうだ。そんなふうに登は思った。
ゆっくりと顔を上げて、今度は登のほうから千石の目をしっかりと見る。

「……そうだな。もう、自分を偽るのは、やめる」

登の言葉を聞いた千石は、満足そうに口の端を上げた。勝気な性格をよく表した、少し生意気な、それでいて親しみや愛嬌を感じさせるこの笑いかたが、登は何よりも好きだった。

「ありがとう、諒……心配かけてごめんな」
「バーカ、何にも心配なんてしてねえよ」

心からの謝罪を軽く笑い飛ばしてくれる、この笑顔がそばにあれば、たとえ流され続けていてもうまく生きていけそうだ。それは登にとっての確信だった。

二人は再びテレビ画面に向き直った。そこにはもう、クラゲの映像は映っていないのだった。