標本

「ルリボシカミキリの標本みたいなものかなって」

そう言って神谷クンはビールを呷った。

「子供の頃に作ったんだよ。綺麗な青色だなって思って。
でも、あの青色を留めることはできなかった。綺麗な青色だったって記憶はあるのに、どんな青色だったのか忘れちまった」

唐揚げに箸を伸ばしながら彼が話すのに、ボクは頷いた。

「だからさ、子供の頃に何かに夢中になったとしても、大人になったら忘れちまうのかなって
そうなった時、それは無駄なんかじゃないぞって、俺は子供達に言えんのかなって……」

難しい顔をする神谷クンに、ボクもまた考え込んだ。彼が言っているのは、かつて同じチームでサッカーをしていたみんなのことだ。

ボクらの将来は、真っ二つに別れた。

今でも変わらずサッカーに関わり続けているメンバーがいる一方で、サッカーから離れてしまったメンバーがいる。離れてしまったみんなのことを思うと、ボクの心は痛む。
あんなに楽しくボールを追いかけた日々を、彼らは忘れてしまったのだろうか。

神谷クンは、サッカーを続けた側の人間だった。そして彼は、今年度の全国少年サッカー大会で県代表を束ねる監督に任命された。
だから余計に、自分が指導する子供達の将来を、ボクたちの現在に重ねてしまうのだろう。

ボクは悩んだ。ボク自身もまた、サッカーを続けている側の人間だ。サッカーから離れてしまったメンバーが何を思って離れてしまったのか、あの頃の記憶をどう思っているのかを推察することは難しい。
けれど、ボクは少し思うことがあった。

「神谷クン」

唐揚げを頬張る彼をボクは呼んだ。

「É fazendo muita merda que se aduba a vida!」
「え? 何??」

ボクの言葉に神谷クンは首を捻った。頭の上にクエスチョンマークがついている。

「ブラジルのことわざだよ。『過ちをたくさん犯して、人生の肥やしにしなさい』
間違わずに生きていくなんてムリだよ。でも、人生の全てに意味があると、ボクは思っている」

神谷クンはぽかんとしていた。ボクは言葉を続けた。

「たとえこの先、キミが指導した子供達がサッカーを離れてしまっても、サッカーをしなければ良かったと思ったとしても、その感情はサッカーに出会わなかったら生まれなかったものだよ
同じように、キミも過ちを恐れずに、キミなりに一生懸命指導すればいい。その経験は糧になる」

そう言い終わってボクは神谷クンに微笑んだ。
すると、しばらくボクの言葉の意味を探るようにこちらを見ていた神谷クンは、ゆっくりと頷いた。

「……そうだよな。考えても仕方ねえことを考えるのはやめる。ありがとうな、カルロス」

彼の言葉に今度はボクが頷く番だった。
すると、ボクを見て神谷クンが可笑しそうに笑った。「どうしたの?」と聞くと、神谷クンは「大したことじゃねえよ」と笑ったまま言う。

「そういえばお前、ブラジル出身だったなって今思い出して。もうすっかり日本に馴染みすぎて忘れてた。
昔はお前のこと、ブラジル人の標本みたいだなって思ってたはずなのにな」

昔を懐かしむ口振りに、ボクの心もまた、少年時代を回想する。
ボクらがこうして大人になっても一緒に食事ができるのは、間違いなくあの日々があったからだ。

「ねえ、神谷クン」

ボクは再び神谷クンを呼んだ。そうしてボクは彼に言う。
「ルリボシカミキリの青色を標本として留めることは難しいかもしれない。
でも、確かにそれが青色だったって記憶していることが、きっと大事なんだと思う」

ボクの物言いに、神谷クンは静かに笑って「そうだな」と同意した。